そうして書けなくなった私へ

思えばきっかけはmixi、その数年後にTwitterに愛用プラットフォームを移行した頃からではないだろうか。
中高生の頃は毎日飽きることもなく、高頻度でこねくり回した長文をブログやリアル(もはや同世代にしか伝わらないだろうサービスだ)にアップロードし続けていたが、より交流に重きを置いたmixiをステップに、TwitterやInstagramが台頭してからはよりタイトに、小気味良いリズムの文章を。人に見られる文章を。透けた自尊心を満足させることができるような文章を、可能な限り140文字以下に収める楽しさに夢中になっていった。

黎明期に始めたTwitterはもう15年近くアカウントを使っているらしい。これだけの期間、他に使い続けているWebサービスはせいぜいGmailくらいだ。しかし実際利用していた時間で考えたら比較にならない。赤子が義務教育を終えるほどの期間、このサービスに親しんだわけだが、累計したらどれだけの時間を割いたのだろう。ちょっとした自分史である。

制作業が軌道に乗り、独立した前後から、徐々にこれらの投稿の比重は、文章より、作品写真をはじめとした画像をベースとした投稿に傾いていく。贅沢言わない。インプレッションはありがたいほど伸びる。仕事や多くの出会いを運んでくれたし、作品も間違いなく私の断片の記録でもあるし、文字や画像に優劣はない。

そうして、緩やかに、いつしか何も書けなくなった。なにも。アプリの下書きには数百と日々の所感の在庫が沢山積まれていたが、投稿できないのだ。どれも偽りない感情や記録なのに、自分のアカウントなのに。

今思えば、知らぬ間にクリエイターやアーティストのクリシェみたいなもので自らを縛っていたのかも。昨今フリーランスは何事もセルフプロデュースが全て…みたいな気負いもどこかであったけど、人間そんなわかりやすくて単調なものではないし。少々矛盾しているけど、自分の独り言について自ら値踏みして投稿するか否か、誰かに共感を得てもらえるかを前提に投稿しているのではないかという答えのない客観性に気が取られる、その散漫さに、自分自身が抵抗感を覚えていたのだろう。できれば作家性と呼ばれるものはひとえに作品や実務で還元したいとは願いながらも、現実ではどんどんと過剰な自意識が邪魔をして、取り留めない投稿が出せなくなる。
このもどかしさを抱いたのは3、4年では済まない。最初の1−2年は裏アカウントを作って、親しい友人に公開しながら活用していたが(私というせせこましい人間をよく理解しているだろう人しか存在しない閉鎖的なスペースでは遜色なくぺらぺら書き連ねることも確かにできた)

「別に裏アカウントを続けても根治はしないし、どんどん苦しくなるばかりではないだろうか?」

と思うようになってからは裏アカウントでも同じように下書きの在庫が増えるばかりで、こりゃいかんとアカウントごと消した。まあ厳密に言えば、書けるには書けるけど、下書きは下書き以上にはならない。気づけばTwitterはXへ進化し、ちょうどその頃から私の投稿頻度も更にガクッと落ち、結局いまでは数ヶ月に数日投稿できているかも怪しい。

そうして書けなくなった私は、SNSから必然的に距離が生まれたことで、この余計で過剰な自己意識はようやく落ち着き始めた。その上で、ぼちぼち根治がしたくなってきたのだ。原点と呼ぶには随分プラットフォームの役割も変わってしまったけど、自分の部屋…ブログからゆっくり始めるのが、今の感覚に合っている感じがする。誰かのために書く文章や、反応もビタミンのようなものだけど、今は自分のために書くことをもっときちんと大切にしようと思う。日記は取るに足らない瑣末なかけら、壁打ちであり、ただの記録だもの。


そういえばSCIENCE FICTION TOUR 2024で聴けるなんて夢にも思わず、本当にうれしかったな〜。
今回、本当にじっくり沸々と、すごく元気が出るセットリストだった。余韻!ヒカルありがとう。